岐阜県各務原市で幅広い印刷にご対応
8:15~17:30

裸一貫から出直し

 正月が過ぎて、ようやく一万円の金を借りると、名古屋の工藤鉄工所を尋ねて「頭金壱万円、月賦で機械をわけて下さい」とたのみました。「中古の機械を月賦で売るなんて聞いたことがない、問題にならんよ」とつれなく断られた。しかしこれであきらめることは出来ない。「共倒れになる友人に温かいめしの一ぱいも分けあって食べれるようにしたい。出来ないところだろうが、曲げて聞いて頂きたい」「お願いします、お願いします」平身底頭、頼んで、頼んで、頼み込むしかありません。そんな押問答がしばらく続いたあげく、「あんたの熱意には根負けしたよ。まあいいだろう、そこの隅にある機械を貸してあげるよ」と戦災焼けの修理機を月賦で七万五千円と話がきまりました。
 工藤氏の好意で機械は来たものの、モーターが買えない、仕事は来た。愛用のカメラが紙に化け、洋服や着物が活字になり、インキに変わった。
 写真入り、輸出用の製粉機のカタログを手廻しで刷り上げ、手廻しから足踏みになり、足踏みからモーターで廻る様になると、隣りから「やかましい」と苦情が来ました。
 苦情が来たお陰でバラックが建ちました。雪が舞い込むような仕事場になったが、深夜まで働いても気兼ねはなくなった。やれ一安心、と思ったら或る日紙屋さんがやって来ました。徴用の時代に金沢の同じ寺で寝起きを共にしてきた人です。「B社に紙を売ったのは君を信用して売ったのだから残金を支払え!」会社の未払いを今更私が、と思うものの「君を信用して・・・」の一言がずしんと胸を突いた。これから商売をやっていこうとする者が、自分を信用してくれた人に損はかけられない、といって今支払う金もない。「今日は頭を下げる日や」と心に決めて、一年の分割払いで払うことを納得してもらい、以来、約束の支払い日をキチンキチンと守って支払った。五回目を支払った時、君は信用できる人や、あとはいつでもええ、紙もどんどん出してあげるから」と心強く励まされました。

 家内に苦労を掛けたのは、何んと言っても創業の時代です。
 新加納の坂に思い出があります。岐阜で仕入れた紙を横付け自転車で新加納の坂を上るのは大変でした。或る日も紙をいっぱいに積んでいて上れないので、ハンドルの左右に縄をつけて自転車を後ろから押して上ってゆきますと、坂を下りて来る自転車の三人連れが、「あれどうなってるの、あの車、人が居らんのに上って来るわ」と言って通りすぎると「あっ!うしろにおったのか」と爆笑してゆきます。
 連日の夜更かし残業、徹夜と続けたため、体調もあまり良くなかった時に、浜屋さんという屋台の中華そばやさんが窓の外に止まって笛を吹いていたので、その中華そばを食べますと一ぺんにはらをこわし二週間ほど寝込んでしまいました。幸いペニシリン、クロロマイシンに助けられましたがあまり休んでもいられません。横付け自転車に乗ったことのない家内に練習をさせ、紙の仕入れに岐阜へ行ってもらいました。
 四時までには帰る予定でしたが、五時をすぎても帰って来ません。そのうちに子どもがお母ちゃんを迎えにゆこうと言い出し、私も少し不安になって来ましたので子どもの手を引いて新加納の近くまでゆき待っておりますと、闇の中にポカッポカッと蛍の火の光の様に灯りが見え始めました。女性の力ではぺタルを踏み続けることが出来ません。体重をかけてペタルを踏んだ時だけランプが光るのです。
「それ、お母ちゃんが帰って来たよ。」「お母ちゃん」子どもは走りよっていました。

 当時は十六銀行の質屋へよく通いました。それはいつも家内でした。
 ちょうど虫の鳴く季節でした。水事場で鳴いていた一匹の鈴虫を捕まえて虫かごに入れ窓ぎわにおきました。すると印刷の回転する音に合わせてリーンリーンと鳴くのです。機械が止まると虫の声も止まります。「虫にも協調性があるのか、えらいもんや、新発見や、新発見や」そんな小さな出来事にも心を和ませながら夜は更けてゆきます。十二時をすぎる頃、妻は昼間の疲れが出たのか、機械に紙を差しながら半分眠っております。いつ目を開いていつ紙を当てているのかわかりません。紙がいがんで印刷されていないか調べてみても正確です。まったく神業です。(もっとも相手は『しめすへんの神様』ですから、かわいそうになって同情して助けてくれたのかも知れません。)
「交替するから休んだら」と申しますと、「もう少し頑張るからそちらの仕事を進めて・・・」と言います。そんな夜の連続でした。こんな生活の中にも運の良い時、悪い時がありましたね。
 金のいることがあって、今日はどうしても集金したい、そう思って家を出ました。目当ては雄飛ヶ丘に農産公社という芋飴を造っている会社がありました。四ヶ月程の金がたまっていましたので今日は何んとかと思いつつ、「こんにちは、毎度ありがとうございます」といって入ってゆくと、ザラザラザラザラ、メリケン袋から集金してきたお金を机の上にぶちあけたところでした。『今日は、金が無いとは言えないぞ、おうー!』変な顔をしながらも、目の前に金があるのですから、向こうも無いとも言えず藁に通した穴あき銭や、札などで全額を支払って頂きました。ほんとに良い所へ入っていったもんだ、運が良かった、と思いました。

 こんどは運の悪い話ですが。当時、吾妻町に那加東映という映画館がありました。千恵蔵・右太エ門、月形竜之介の忠臣蔵の新聞折込チラシを印刷しました。新聞屋さんへ持ってゆくために映写技師の若い人が来て自転車に積んで、那加橋の上までゆくと、強い風にあおられて、自転車が倒れて、チラシが風に舞って飛んでしまい、散らばったものをひろい集めても四分の一もありません。急遽印刷をする事となり、今かかっている仕事を刷り上げてから、刷り終えたのは夜中でした。
 その当時は断裁機も無かったので、包丁で手で切って新聞屋さんの開くのを待ちました、やがて汽笛が鳴ると朝刊を積んでいた汽車が那加駅を出るのです。新聞屋さんへ広告を持って行こうとすると、一ヶ月ほど前に買ったばかりの、後ろのタイヤの太い自転車がありません。ヤラレタ・・・その頃は自転車泥棒が横行していた頃でした。早速兄の家をたたき起こして自転車を借り、チラシの方は事無きを得ましたが、自転車はとられ損でした。
 当時一番うれしかった事は、気掛かりだった機械の月賦の滞りが解消した事でした。刷り上げた品物をスノコに乾かして得意先廻りに出掛けた日です。「今日、名古屋の工藤さんがみえました」と家内が言います。早速電話で不在と滞納のお詫びを言いますと、「イヤー、井奈波さん、今日あんたの仕事を見せてもらった。あの機械であれだけキレイな良い仕事が出来るとは大したもんや、私はあんたの腕にほれた。金はいつでもええ、あんたはキット立ち上れる人や。まあ、しっかり頑張ってちょう」
涙がこみ上げてきて、何んども、何んども電話機に頭を下げて拝んでいた。
 私の創業時代は皆様の前でお話し出来る様な立派な方針とか経営理念などは一つもありません。
 只、精一杯誠実に動けば、私達の小さな願いは、きっと叶うものと信じ、今年は電話機を、今年は断裁機をと、只、ひたむきに生き抜いて来たにすぎません。

 そんな中から後に経営の指針として、
   “期日、技術、誠実をもって、お客様の信頼に応えよう” この言葉が生まれました。

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