岐阜県各務原市で幅広い印刷にご対応
8:15~17:30

共同経営

 翌年、昭和二十二年夏、親友から会社を始めようと思うがどうしても君の力をかりたい、一緒に会社をやってくれんかと誘われ考えた末、私は現物出資で参加することになり五人の同志で社を設立し、私は工場長として忙しい毎日を過ごすことになりました。
 電力制限でモーターが止まると、ヤンマージーゼルをポンポンポンポンと廻し、電灯が消えると、ヤカンの口にボロ切れを差し込んで石油を入れて、火をつけてランプの代用としました。徹夜もたびたびの有様で朝になると、顔も鼻の穴も真っ黒、それこそ汗と油にまみれて頑張りました。印刷機も四台に増えました。
 学校関係の仕事もだんだん増え、新しく学校には学籍簿が必要となり、その受注の目途が立って、岐阜県、愛知県の分を合わせて四百五十万枚となる。現在の能力では、とてもこなしきれない。ということで大阪に出掛けて、もうすぐ出来上るという全版の印刷機を買い、出来上り次第送ってもらう事にして金を払って来ました。ところが待てど暮らせど機械は来ません。しびれを切らして大阪へ行ってみると、全く手を付けてありません。こんな事では間に合わなくなる。翌日トラックをチャーターして、出来ていない所はこちらで直すと機械を積み込み引き取って来ました。そして私の指示で全部組み立て、未修理のところは、鍛冶屋へ走り、ローラのメタルはセンターを出して、活字をとかして流し込んでメタルを造り働くようにしました。
 五人で始めたB社は一年のうちに全版機を含めて機械五台、断裁機一台、従業員四十人とふくれ上がりました。
 思いおこせば弟を連れて日曜に機械の組立を勉強したのが始まりであれから十五年あまり、その後大阪の機械屋が来て調子よく回っている機械を見て、事務所で「大阪広しといえども、全版を組み立ててあれだけの調子を出せるのは三人と居ないでしょう」と言ったという、お世辞にしても報われた気持ちになりました。
 だが「印刷と出版は両立しない」というのがその当時の業界の鉄則とされていました。しかしB社はその後、学校の学習テストの問題を師範学校の先生を通じて京大の先生から買い、学習テストのプリントを全国的に売り出し、北は北海道から南は九州と手広くなり、発行部数を見ると成功するかにみえたが、ドッジ金融引き締め政策ラインの不況で売掛金の回収がバッタリ止まり、税金はドッサリ来るわ、現金は無いわ、で苦境に落ち入り消える運命を辿りました。
 私は昭和二十四年の十二月末日をもって退社しました。長い間の給料の未払いでふところにはわずかの金しかない。私は十二月の空をながめ、裸一貫から出直しや、石にかじりついても立ち上ってみせる、と心に誓いました。

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