岐阜県各務原市で幅広い印刷にご対応
8:15~17:30

最初の独立

 昭和二十一年正月がすぎると独立の準備にかかりました。

先づは機械
幸いローラー屋さんの世話で美濃町に手フートの中古があると聞き家内と二人で出掛けてゆき買いまして、分解してリュックサックにつめて肩に食い込むのを背負って帰りました。

次は活字です。
どこも焼けてしまって京都か金沢にしかありません。
幸い戦争中は金沢にいたので宝文堂という活字屋さんがある場所はよく知っていました。夜行列車で窓ガラスの割れた所に板がはってあるがそのすき間風は冷たいものでした。朝早く金沢駅につき顔を洗って弁当のにぎりめしを食べようと開いていると、五歳位の男の子が手をふるわせながら物ごいに近寄って来ます。かわいそうに思って一つ与えると、むさぼる様に食べる姿は忘れられません。
 宝文堂の開く時間を見計らって出かけました。
 その当時活字は、リンク制と言って、古い使えなくなった活字を持ってゆかなければ買えないことになっていました。ですから「鉛を持って来ない人には売れないよ」とあっさり断られました。しかしここで、そうですかと帰るわけにはいかない。どうでも買って帰らなければ始まらない、何んとか売って下さいと座り込んでしまいました。
 主人は用が出来ると出てゆきます。三回ほど出入りがあった午後三時近く一人の客が尋ねて来ました。そして私を見て、
「この人どおゆう人や」
「活字を売ってくれと言って動きやせん。鉛を持って来ん人に売るわけにいかん、何んど言っても動きやせん」
「ホー。あんたどこの人や」
「岐阜です。」
「岐阜なら西濃印刷知っとるか」
「はい、西濃印刷は十三年居って、そこで印刷を覚えました」
「そうか、そんなら二口という男知っとるか」
「二口君なら一緒に野球をやっておりましたので知っています。彼はくせのあるモーションで、なかなか打ちにくい球を投げるいいピッチャーでしたよ。私はショートを守っていましたし、彼は文撰で私は機械でした」「そうか、二口はうちで育った子や、そうかそうか」
と話をしているうちに宝文堂の主人に向かって「どうや、戦争もすんだ事やし、売ってやったらどうや」「そら組合長がえーと言うんなら、そりゃええけど、そんならなーうちも手間がないから、自分で文撰してゆくなら売ってもええわ」
 ねばりにねばった甲斐がありました。それから二時間、名刺に必要な文字を一生懸命文撰箱に二十四杯。リュックサックに入れましたが重い重い。日通で送ろうとしましたが時間が遅く駄目。チッキで送ろうとしましたが重すぎてこれも駄目、やむなく体をくの字に曲げて駅の階段をのぼり、ようやく列車の出入り口に座り込んで、トンネルの煙になやまされながら岐阜に着き駅の階段でリュックのおびを切ってしまいました。

次は紙です。
兼六公園の中に九師団指令部があります。公園の近くに陸軍のご用商人の店がありました。その店で星のマークの入った賞状がありましたので、それを買って中の部分を利用して使いました。

次にインキを買いに名古屋にゆきました。黒は買うことが出来ましたが、緑、草、浅黄は無いと言うんです。よくよく尋ねてみると、ポマード屋さんが買い占めてゆくといいます。グリス油と印刷インキを混ぜ合わせてポマードを作ると言うんです、びっくりしました。

 準備は出来ました。あとはいかに注文を取るかということです。
上質紙に「名刺の印刷承ります」ポスターを書きまして、県庁と市役所に近い今小町のマーケットと、柳ヶ瀬のカギ鉄という事務用品の店と、新岐阜駅の近くのマーケットと三ヶ所にお願いして夕方に帰って来ますと、マーケットの人が四時ごろ十四枚の原稿を届けてくれてあったのには驚きました。
私が名刺屋を始めたと聞いて、戦災にあった印刷屋さんも注文に来てくれる様になり、時には食糧の芋を買いに畑を走り廻ったり、順調にスタートを切りました。

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