岐阜県各務原市で幅広い印刷にご対応
8:15~17:30

徴用と終戦

 「捨てる神あり、拾う神あり」で、私の話を聞いた写真製版会社の社長さんが、岐阜一番の活版印刷の職人という振れ込みで、愛知時計の指令工場丸八印刷へ世話をして下さったのは間もなくでした。その後岐阜の太洋社に招かれた。その頃はすでに紙が統制に入っており、紙のままで売ると闇となるのでB4の紙の片隅に小さく川崎航空機と印刷することで闇にはならない。毎日毎日同じものを印刷するので何枚刷るのですかと聞くと、ストップと言うまで刷れ、と言うことです。それ位どこも紙が欲しくて困っていた時代でした。
 またその頃のママさんパワーも大したもので、女工さんも子守りを競い合う様に手ぬぐいで向う鉢巻をして、表を見ながら競争して作業したものです。
 昭和十八年の暮れについに徴用が来て十二月一日各務原航空支廠に入りました。その後金沢に転属になりましたが、だんだん食糧事情が悪くなってくると人間も浅ましいものですね。並べてある丼鉢のごはんの量を見定めて、席を取る様になりました。
 また、出張先海辺の時、朝四時頃になると板木が鳴ると待ち兼ねた様に引綱の手伝をすると、いわしが二、三匹もらえるのが楽しみの一つでした。八月十五日終戦になると、寺に帰ってからは毎晩、毎晩、岐阜県の地図を出して、白山を越えて岐阜へ帰る道順の相談ばかりしておりましたが、八月三十一日退職金をもらい、九月一日、毛布と蚊帳をかついで帰って来ました。
 兄の世話で楠町の川崎の社宅へ入れて頂きました。
太洋社に復職しましたが、当時私の日給が五円で名刺百枚の印刷代が五円。
焼け残った印刷屋さんはわずかで、戦災にあったところはまだ復興していない。名刺二つか三つこなせば日給くらいの金はかせげる。「独立するのは今だ、先づは名刺の印刷からはじめよう」そう決意すると十二月末をもって太洋社を退職いたしました。

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