岐阜県各務原市で幅広い印刷にご対応
8:15~17:30

西濃印刷を退社

 昭和十六年、丁度その頃、加納の城跡に航空軍司令部がありました。西濃では指令部からの注文の仕事で航空軍の乱数表を私の機械で印刷しておりました。その解読書は名古屋で印刷していると聞いておりました。御存知の方もあるかと思いますがこの乱数表は枡が百あります。その中に四桁の数字が並んでいます。その原稿を作るのも人ですから、自分の好きな数字がありますのでどうしても同じ数字が並びやすい。最初のうちは書いた原稿で作っておりましたが、後には数字の必要な本数を一ヶ所にぶちあけて、マージャンのパイの様にかきまぜて活字を裏向きにひろい、無作為に並べて作る様になり、同じと気付いたものだけを直す様になりました。
 この乱数表が出来てから解読書を作るということでした。これがあまり長く使えないのか時々印刷をし、必ず私が担当して印刷しました。
 ある日、担当の曹長から、外部で印刷していると秘密が漏れる心配があるので、遠からず指令部内で印刷することになると聞かされました。
 その頃は召集令状が今日来るか、徴用の令状が明日来るか、何人しもがそう思っていました。私も徴用が来て川崎航空機へ入るよりも、できたら印刷の技術を生かすところがあればと思っている矢先でしたので担当の曹長に指令部で雇ってもらえないだろうかと打診しますと、君なら要領もよくわかっているので相談してみると言って、後日Kだぞと返事を頂きました。
 昭和十七年一月に会社へ退社届を出しますと、私の保証人へ会社からの引き止めの話がありましたが、周囲の状況を話して三月まで居ることを条件に退社しました。
 当時は労務手帳というのがあって、それが無いとどこも雇うことが出来ません。その手帳が私の手に入ったのは六月も終る頃でした。
 指令部へ行ける日が来ました。
 この日に着ようと新調してあった国民服を着て、自転車で加納の指令部へ出掛けました。ところが三ヶ月の間に事情が変わっていました。たのみの曹長は士官学校へ入学。航空軍指令部は東京へ移ることになり東京へ行くならと言うことです。東京はいつ空襲されるかわからず、右も左もわからぬ東京へ行くことにはためらいがありました。ふんぎりがつかず考えておりますと、私の筆書きの履歴書をじーっとながめていた事務官が、「この履歴書君が書いたのか」「そうです」と申しますと、「こんな時に東京へ行くよりも、ここで筆生にならんか」と言われます。「それは願ってもない事です、お願いします。」となりました。
 私の労務手帳を見て、西濃印刷の諒解をとるからしばらく待っておれということでした。ところが会社の方は、この人手不足の繁しい時に、うちの従業員を引抜かれて本当に困っておると苦情たらたらで、「とてもあんな事を言われては、西濃さんとは切れている訳でもないので雇うわけにはいかんよ」と断られました。
 指令部を出た私の頭の中は会社のしうちのことばかりでした。会社のため、会社のためと思って十三年間努力して来た者でも一端外の者になるとこうなのか、ポツポツと降り出した夕立が猛烈な勢いで降って来ました。雨宿りする気にもなれず、新調したばかりの国民服もびしょぬれになりながら叫んでいました。
 「これが私へのしうちか、どんなに会社が妨害しても、十三年間磨いてきたこの腕、この技術は、雨にも流されないし、風にも飛ばされないぞ、きっといつかは自分の城を築いてみせるぞ」と将来の独立を心に誓ったのはこの時でした。今にして思えば会社としては可愛さあまって憎さ百倍と言ったところでしょうか。

関連記事