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この道に入った動機

 私は岐阜の忠節四丁目で生まれました。
 父は女工さん四十人を使って、糸工場を経営して絹糸の貿易をしておりましたが、第一次の世界大戦が終わるとバタンと貿易がとまり商売を続ける事が出来なくなりました。そこへ、あの大正十二年の関東大震災でした。
 父は東京で商売をしようと出掛けましたが、その父より十二月の末に金送れという手紙が来ました。ちょうど学校が冬休みに入った時でしたので十一歳の兄と八歳の私と二人で金を持って東京へ行く事になりました。私は可愛いい用心棒です。当時は夜行列車で岐阜を夜の九時に出ると翌日の朝の九時に東京へ着く、十二時間かかりました。
 「おい!起きよ、起きよ」兄の声に目を覚ますと、「富士山が見えるぞ」「ワッ富士山や」初めてみる富士山に目を輝かせたのは朝の六時頃でした。
 東京駅のプラットホームでは父が出迎えてくれました。兄は金の入ったサイフをとけるほどにぎって一睡もしなかったということです。
 そのときの東京の良い思い出はありません。
 暗い焼け野が原に電灯がポツンポツンと灯り、道路だけがだだっぴろく、酔っぱらいをしばりつけた大八車がガタガタと行く。家屋敷を焼かれた焼け酒でしょうか、生きる望みを失っての失望の酒でしょうか、やたらに酔っぱらいの多い町というのが私の印象です。
 東京に見切りをつけて帰って来た父が、二月から懇意の方のすすめで始めたのが、岐阜の柳ヶ瀬にある衆楽館という映画館の中の売店です。(噴水・テケツ・お茶子さん)
 それからの毎日は楽しかったですね。活動写真が毎日ただで見れましたからね。目玉の松っちゃん、千恵蔵、右太エ門、阪妻、松っちゃんの猿飛佐助の忍術、不思議でしたね。何しろ俵が坂を上へころがって行くんですからね。
 東山三十六峰草木も眠る丑満時、ここ三条橋上時ならぬ風に乱るる血の香り新撰組の必殺剣、ああ人呼んで風雲児鞍馬天狗近藤行くぞ、来い。チャンチャカチャンチャンチャカチャン
何しろ可愛い盛りの五歳ですからね・・・。毎日見てるんだから勉強など出来るはずがないですね。
 しかし、小さな私には父は働くことを教えてくれました。小さい切りだめを与えられて、売子になりました。
チーアンパンに菓子、キャラメルにスルメ・・・。小さいから可愛いいという徳な事も応々にしてありました。その当時の映画館は一階はイス席で、二階はタタミになっていました。お茶子さんが居まして、火鉢と座布団で十銭、お茶で芸者さんを連れたお客さんがよく来ており、「チョットその小さい子」と呼んでくれ五十銭の甘栗をよく買ってくれました。売子でも馬鹿になりません、私が小学校を卒業するまでの六年間に最高に売れたのは、忘れもしません、四谷怪談のお岩さんの時でした。その日の売上げが三十五円でした。(その当時、大工さんの日当が一円位でしたので、売子の取り分は一割でしたから、その日の私の働き分は三円五十銭ですから想像がつくと思います。)売子さんは貧しい家庭の子が多かった様に思いますが、後に柳ヶ瀬に近い神田町通りで貴金属の店を開いて、今は亡くなり子供さんがあとを継いでおられますし、もう一人の方も亡くなりましたが、岐阜の中心地に近い所にビルを建てて一階は洋菓子屋さん、二階はお医者さん、三階に家族の方の住居で加納に工場があります。
 子供のときに働くことをおぼえ、お金の尊さ、大切さをしみじみと感じたことを生かされたのだと思います。
 普通の日の稼ぎは三十銭から五十銭位でしたが、たまには、おふくろさんに十銭もらって衆楽館の軒に屋台を出していた「デブ」さんで支那そばを食べるのが楽しみの一つでした。「オイ坊!これを弁士の南さん、これは楽士の片桐さんにたのむ」「アイヨ」と言って出前を手伝うと焼ぶたが一切れ増えます。チャーシューメンになることもあります。
 今、高島屋の西に「デブ」という店がありますが、後に屋台から店を持たれたのは先代のデブさんです。
 また映画館では入場者にプログラムを渡していました。
 「おい坊、このプロ、二つに折ってくれ」そのプログラムの印刷インキの匂ひ、それが私を印刷の道に進ませたのではないかと思います。

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